オリエンタリズムから読む指圧研究の壁:衞藤 友親

衞藤 友親
明治大学体力トレーナー

本稿執筆のきっかけ

 2017年9月10日、株式会社読売巨人軍所属のS投手の当該シーズンにおける不調の原因が、同年2月27日に球団トレーナーによって施術された鍼治療が原因であるとされ、球団がS選手に謝罪したとの記事が報道された。1)

 これに対し、公益社団法人 全日本鍼灸学会、公益社団法人 日本鍼灸師会、日本伝統鍼灸学会、公益社団法人 日本あん摩マッサージ指圧師会、公益社団法人 全日本鍼灸マッサージ師会、社会福祉法人 日本盲人会連合、公益社団法人 全国病院理学療法協会、日本理療科教員連盟、公益社団法人 東洋療法学校協会は9月21日付で球団に対し連名で「はり治療を原因とした理由(因果関係)と他の原因を除外した理由」等を問う内容の質問状1)を送付。これに対し球団は11 月7日付の文書2)にて“(複数の)いずれの医師も、選手の症状等から長胸神経の不全麻痺であり、それに伴う前鋸筋の機能低下であるとの診断に変わりはないと話されています。また、発症時期や当該選手の問診等から、長胸神経の麻痺は、当球団のトレーナーが行った鍼治療が原因となった可能性が考えられると答えられました。ただし、鍼治療以外にも、強い力がかかる他の外的要因によって長胸神経の麻痺が生じた可能性もあるとの意見も出ました。”と回答した。回答書の後段には“当該選手の長胸神経麻痺はすでに回復しております。また、当該選手を施術したトレーナーは、現在も当球団のトレーナーとして勤務しています。当球団は鍼治療が有効であることを十分認識しており、現在も多くの選手やスタッフに対して鍼治療が行われています。今後も引き続き鍼治療を活用していく方針に変わりはありません。”1)とあり、玉虫色の回答で丸く収めたい意思が透けて見える内容であった。

 さらに同球団と鍼治療の関係をさかのぼって調べると、1987年にはE投手が引退会見にて「野球生命が絶たれることを覚悟で打ってはいけない右肩のツボに鍼を打ち続けた」と発言した事例が、1996年にはM投手が肺気胸で入院に至った原因が、球団トレーナーの施術する電気鍼だったとして球団が選手に謝罪した事例3)がある。

 指圧治療より科学的研究の進んでいる鍼灸治療であっても、西洋医学の医師(だけに限らないが)からは「不確かな治療」や「怪しい治療」であると認識されている感じが否めない。ましてや指圧をや、である。

 日本指圧学会設立以来、筆者は微力ながら指圧の科学的究明に尽力してきたつもりであるが、科学的究明を地道に続けたとしても越えられない壁のような存在も近頃感じ始めた。この壁について、西洋文化と東洋文化の差異について考察および問題提起されたサイードの著作『オリエンタリズム』と、日本におけるオリエンタリズムを参考にして、自然科学系とは異なった観点から考察することとした。尚、論を展開するにあたり既知の事象の透写に過ぎないと感ずる方があるかもしれないが、当たり前のことであっても改めて記録に残すことにより、新しい知見や共通認識が生まれることを期待して論ずることとする。

オリエンタリズム

 オリエンタリズムとは用語の用法や文脈によってニュアンスが異なる語である。エドワード・W・サイードが著書『オリエンタリズム』で指摘したのは、東洋の文化、風土、風習、政治などへの西洋人からの視点を批判的に捉えた批評ないし問題提起である。サイードの出自はパレスチナ系アメリカ人である。ひとつの文化圏のど真ん中で生活すると、他の文化圏との差異には気付きにくいものであると考える。例えば、ある島に生まれて一生を島で暮らす者はその地が「島」だとは気づかないはずである。別の島、あるいは大陸と比較して初めて「島」という概念が生まれる。

 和訳版巻末の杉田による論評4)でも触れられているが、サイードのように文化圏と文化圏の境界に生きる人物は、相互の文化的差異の中に生きるしかなかったため、意識的にその差異について批評可能であったのだと推察する。彼が採った手法は、西洋人の手によって記された小説などの膨大な文献中に見られる東洋に関する記述を収集し、その表現に於ける傾向を分析する方法であった。西洋諸国は近代以降その進んだ科学力、技術力を背景に植民地を拡大していった。その中で無意識に西洋文化>東洋文化の思想や図式が醸し出されていったのは想像に難くなく、実際に歴史が証明しているものと考える。彼の著述以前に用いられていたオリエンタリズムは、純粋に無批判に無意識に東洋文化を吸収または利用する立場であったと想像するが、サイードの指摘以降は東洋文化を西洋文化の優位的立場から見下そうとする差別的感性への批判的視点から不可避になったように思われる。

 よってこれらの前提を踏まえて本稿では広義のオリエンタリズムを、東洋文化への憧れや畏怖、と、東洋文化を言語化する過程で生じる差別や相対化、のどちらも含むものと解釈する立場を採ることとする。サイードの記述に於いても、ナポレオンによる『エジプト史』編纂をめぐる文脈の中で“近代ヨーロッパ科学の中に登場した新しいオリエントは(中略)「ヨーロッパ諸国民の風習との顕著な対比」を示す役割を担い、それによって東洋人の「奇妙な享楽性」が西洋の風習の生まじめさと合理性とをことさらきわ立たせることになる。” 5)などの箇所が見られる。

 先述のように、サイードの手法はすでに書き記された文献から西洋から東洋に対する視点を詳らかにするものであるが故に、西洋=書く人、東洋=書かれる人、の図式が固定化されてしまっている。これはもう一歩踏み込んで“ 東洋人は固定化された不動のもの、調査を必要とし、自己に関する知識すら必要とする人間として提示される。” 6)と表現されている。筆者はこの一文に触れ、西洋医学から見た東洋医学に対する見方や発言全般が集約されているように直感した。東洋医学は経験医学として固定化され、その作用機序の知識すら外部(西洋医学)から必要とする医療として提示される宿命である、と。

日本におけるオリエンタリズム

 訳者あとがき7)のなかで今沢は“ 主体=観る側としての西洋と客体=観られる側としての非西洋世界とが対立するオリエンタリズムの構図に対して、近代日本はきわめて特異な関わり方をしている” として評している。また“ 日本は西洋の東洋観をも摂取して、オリエンタリズムの主体=観る側に立ったのである。したがって西洋オリエンタリズムに向けられた批判は実は日本のオリエンタリズムに向けられた批判であると言うべきなのである” とも指摘している。また杉田8)は“「日本のオリエンタリズム」の問題は、日本と東アジア(とくに中国・朝鮮)との歴史的関係を辿るときにも同様に現れてくる” と述べている。また“ 日本と中東のあいだでは、さまざまのレヴェルで日本人の「オリエンタリズム」を問題にすることが可能” であるとし“ 商社マンのあいだでよく問題にされる「アラブのIBM」-イン・シャー・アッラー(神が望み給えば、多分)、ボクラ(明日にしよう)、マーレーシュ(気にするな)-というアラブ社会を揶揄した合言葉” を例に挙げている。

 この問題提起に対して、筆者にとって多少経験上の造詣が深い沖縄文化を当てはめて考えてみたい。観る側が非沖縄県在住者「大和人」(やまとんちゅ)若しくは「内地人」(ないちゃ)であり、観られる側が沖縄県在住者「沖縄人」(うちなんちゅ)という図式である。先のアラブのボクラ(明日にしよう)、マーレーシュ(気にするな)はそのまま沖縄人の「島時間」の概念及び「沖縄口」(うちなーぐち、沖縄方言)の「なんくるないさー」に置き換え可能である。我々大和人が沖縄人は時間にルーズであることを指して「島時間だから仕方がない」と発言するときには、軽い侮蔑の感情が入るのと同時に、時間に急かされないおおらかな雰囲気の中で仕事がしたい、という憧れにも似た感情を同時に抱いているのを完全には否定できない。この心的現象はあくまでもイメージであって、実際には多数の沖縄人が時間に正確である。そうでなければゆいレールや航空機の定時運行は不可能なはずである(関東圏の朝の電車の方が定時運行率は低いように思われる)。そもそも浦島太郎の竜宮城のように、大和人は海の向こうに時間の流れを超越したパラダイスがあるとのイメージを共有しているように感じる。沖縄はこのイメージを具現化するのに丁度良い地理的環境を有していると考える。もっともその沖縄においてもニライカナイ信仰という沖縄人共通のイメージが存在し、沖縄本島にとっての久高島や宮古島にとっての大神島は神事を行ういわゆる「神の島」としてそのイメージに近いのかもしれない。

 大和人が抱く憧憬が沖縄であり、沖縄が抱く憧憬がニライカナイであるとするならば、オリエンタリズムの持つ差別的視覚をも沖縄は持っていることになる。それが端的に現れているのが人類館事件だと考える。あらましは“1903年(明治36 年)3月、大阪で政府主催の第5回内国勧業博覧会が開かれた。会場周辺には営利目的の見せ物小屋が立ち並んだ。その一角に、「学術人類館」と称する施設がたてられ、アイヌ・台湾の先住民族・琉球人(2人の女性)・朝鮮人・中国人・インド人・ハワイ人などが「陳列」されて見せ物にされた。これに対し、韓国・中国の留学生から抗議の声があがり、『琉球新報』の太田朝敷も「隣国の体面をはずかしめるものである」として中止を求めた。しかし、太田は同時に「琉球人が生蕃(台湾先住民族)やアイヌと同一視され、劣等種族とみなされるのは侮辱」であると述べ、沖縄のゆがんだ日本への同化思想をあらわにした。沖縄からの抗議で、琉球女性の展示は取り止めになったが、他の民族の展覧は最後まで続いた。” 9)とのことである。大日本帝国への同化思想が背景にあったとは言え、沖縄人が台湾先住民やアイヌの人々を下に観ていた事実が浮かび上がってくる。観られる側がその不条理を訴えた事例が、サイードの指摘を待つまでもなく行われていたことになる。逆説的にサイードの問題提起が一般的、普遍的であることも示しているように思える。

 さらに狭小な例では、与那国島の民話「イヌガン」10)のなかにも、他の島(文化圏)への憧憬とも侮蔑とも読み取れる表現がある。要約すると、イヌガンとは与那国島内の地名であり、そこに久米島から漂着した女と犬が暮らしていた。そこへ小浜島から新たに漂着した釣り人が現れ、久米女の知らない所で犬を殺害し埋めてしまう。小浜男は小浜島に妻がありながらも久米女との間に子どもを作り与那国島にて暮らすが、ある日犬の埋葬場所を久米女に話すと、翌朝にはその場所で久米女が犬の骨を抱きながら死んでいた。久米女と小浜男の子どもたちが与那国島に村を作った。という話である。原罪の暗喩のようでもありながら、はっきりと久米島と小浜島と言った固有の島名が登場するのが印象的である。島の固有名詞の代わりに「ある島」などを当てても「くにはじめ」の物語としては成立しそうだが、与那国、久米、小浜の固有名詞がでてくるのは各島の間で起こった何らかのやりとりが元ネタになっているだろうということは想像に難くない。

 さらに卑近な例では、大阪は東京をライバル視するが東京は大阪をそもそもライバルとすら思っていない、とか、でもお笑いやユーモアのセンスは大阪の方が東京よりも上だ、など、罵り合いと称え合いの紙一重は各地で観られる現象であることが観察される。杉田11)は“ 安易な一般化と「上からの演繹」を戒めることが何より必要とされているのであり、一旦作られたレッテル(言説)がいかに強大な力を揮うようになるかという点にこそ,『オリエンタリズム』が、私たちに強く警告している問題の一つはあったのである。” と述べている。

 このようにある文化圏からある文化圏への憧れや侮蔑は、その文化圏の広狭や構成人員の多寡にかかわらず存在する、或いは存在せざるを得ない。これは人間の本能のようなものであると筆者は考える。

東洋医学を取り巻くオリエンタリズム

 西洋医学は文字通り、数値化、言語化、統計と実証の科学的な西洋文化を体現している、日本における非西洋医学はそれこそ沖縄の島々のように様々な療法が存在し、雑多でありながらも西洋側からある種のイメージの固定化を許している。さらに各療法間には憧憬や侮蔑が入り混じったマウンティングにも似た観念や言動が半ば本能的に存在する。資格の有無、エビデンスの有無を問わず、である。

 ここまで考察してきたように、西洋医学から東洋医学への眼差しには、実際の厳密な科学的検証とは別系統として、臆見や観念が先行する形での「上からの演繹」が無意識的に含まれてしまう。この感覚こそが東洋医学をいつまでも胡散臭さの檻に閉じ込めている正体のように思われる。西洋医学を修めた医師が、S投手の不調の原因を東洋療法(のせい)に求める図式が世間に違和感なく受け入れられてしまう主因はここにあると考える。対象を数値化、言語化する西洋発祥の科学的作法に従って東洋医学を研究したところで、西洋によって東洋に貼られたレッテルがある限りは胡散臭さがつきまとってしまうのではなかろうか。

 またさらに、オリエンタリズムを踏まえても踏まえなくても、東洋人が西洋人を相手に東洋らしさをセールスポイントに掲げる事例が存在することにより、問題を一層複雑化せしめている。青木12)は“ オリエンタリズムは西欧の「偏見」にはちがいないとしても、アジアもまたその形成に協力したといってもよい。フジヤマ、ゲイシャもまた然り、異文化をめぐるイメージの売りと買いとの競合が、常に異国情緒を創り出してきた。” と述べている。これはかなり突き刺さる指摘に感じる。東洋医学はそもそも意識的に「東洋の神秘」「得体の知れなさ」を売り文句にしているのではないのか?と筆者には読み取れてしまうのである。二度目の東京オリンピックに向けた胎動を感じる今般、確かに例えばインバウンド客層対策として東洋の神秘をキャッチコピーに掲げたジャパニーズ・ヒーリングとしての指圧を売り出せばまあまあ人気にはなりそうだが、やはりどこか腑に落ちない気分も残るだろう。指圧の科学的探究の壁は自己の中にも存在し得る、ということである。

レッテルは剥がせるのか?

 結論から申せば「剥がせない」と考える。いままで見てきたように、相対する文化自身の中にも相対する文化があり、箱根細工の入れ子のような構造が観察できる。最終的には文化圏を構成する集団の最小単位である個人の中にもアンビバレントな感情や逆にレッテルを利用してやろうとする計算が働く心理が読み取れる。このことから「上からの演繹」によるレッテル貼りは人間の本能のようなものであり、貼ってしまう思考自体については禁じない方がスマートな態度であるように思える。その思考を隠蔽しない分むしろ自然で欺瞞的な態度に陥らなくて済むような気がしてならないからである。思考実験として人間を原始状況に巻き戻して推察すると、風上、風下や川上、川下などを感覚から読み取る能力を人間は獲得していて、その拡大的応用として文化の優劣をも直感する能力があり、生存上優位に立ち続けるための情報を欲するからこそ常に「観る側= 上位」にいたいのではないだろうかと考える。

 しかし、この仮説が正しいとしても、今回のように既存のレッテルを利用するような形で身体の不調、障害の精確な検証をすることなく世間に公表してしまうことは避けなければならない。少なからず風評を含む実害を被る人や傷つく人を生み、異文化間の対立の先鋭化を招いてしまうからである。

 では、この難問にどう対処すればよいのか。

 サイードの『オリエンタリズム』発表から四十余年、沖縄の本土復帰から四十余年、この間に世界の情報伝達技術は発達、さらにまた広く普及し、異文化間の情報交換の頻度は飛躍的に増大した。この恩恵にあずかり、いまやインターネットに接続した大画面を通して異国の路地や市場の風景および動画を再生し、世界旅行の疑似体験が居室にて可能となっている。また歴史上の各文化圏の資料などが偏見や臆見なしに直接閲覧できるようにもなった。これらにより、西洋による東洋への「気づき」の深化、高度化も起こっているように思われる。東洋医学における好例がキーオンによるファッシア論13)ではないだろうか。東洋医学的には既知であった心包や三焦を結合組織や発生学の観点から検証しているこの論理については、科学的であるがゆえに論理の精確性についてはこれからさらに検証されていく必要性を感じるが、キーオン曰く“ 経絡や「氣」を現代の言葉で通訳したにすぎない” のだそうである。一見すると『オリエンタリズム』の西洋による記名の延長にも思えるが、訳したにすぎないという謙虚な言葉を純粋に信じて論の再検証と強化の経緯を見守りたい。

 そして西洋医学側からの批判的でない友和的なアプローチを、我々東洋医学側は黙って待っている訳にはいかない。訳されるべき時に向けて準備することが山のようにあるはずである。西洋の科学の作法に則った研究を深化していくことは、先に挙げた意識的な東洋らしさをセールスポイントにしている者からは理解が得られないかもしれない。しかし情報化社会が高度に深化進行すれば、文化圏間の相対化がさらに加速し、観る側と観られる側、表記する側と表記される側は日々刻々と逆転を繰り返していく可能性が否めない。すでにSNSなどで「言った者勝ち」のような状況が散見される。ある事象に対してある人が「こうだ!」と言い、その言説のみが正義、真理として通用してしまうとその事象に対しては誰も反論ができなくなってしまう。一方、エビデンスに裏付けられた事象は、報告された手順に従いさえすれば誰もが等しく再検証や反証が可能である。例え同一の結果が得られなかったとしても、その検証を次の再々検証に繋げていくことができる。この一連の流れを通じることによって多くの合意の形成や相互理解を生むのである。エビデンスなき放言ではこの流れを生むことはできない。異なる文化圏間または異なる手技療法間で共通認識を醸成する妥当な方法が科学的手法だとすれば、一見国家資格の有無は問われないようにも取れる。しかし、一定の治療実績および科学的証明による知の集積、エビデンスがあるからこその国家資格とも言える。無資格の手技療法はエビデンスを示して国家による承認を得るように活動すべきである。また、有資格の手技であってもエビデンスの集積に努めるべきであると考える。

 東西文化圏の分け隔てなく、さらに小さい各文化圏も差別なく、良いところを集積し悪いところを淘汰したようなコスモポリタニズム文化圏のようなものが確立されれば本能的な「上からの演繹」のような差別的記名および思考は、無くならずとも先鋭的意識を持たずに済むところまでは行けるように考える。

 壁は乗り越えなくとも自然と消えてくれるのが一番平和なのではなかろうか。

おわりに

 異なる文化間の差異を観察する時、無意識に優劣の偏見で観てしまう。この先も西洋医学側から東洋医学側に対しての偏見に起因するトラブルが想定される。しかし、相手の文化へのリスペクト精神に基づき、異文化同士相互の共通認識の了解方法から確認する丁寧な対処を心がければ、差異をフラットに捉えようとする方法を模索し得る。避けるべきは真正面から反論する方法で、新たなマウンティングを生じさせることである。合意に基づく共通の方法(科学的手法)を用いて検証、再検証に耐える立証を通じながらより広く新たな合意形成を目指していく包括的な動きが合理的で経済的なのではないかと考える。

 都合の良い抗弁の隠れ蓑に東洋医学を使われないように、多くの人が検証、立証に参加し平等に議論できる土台づくりを進めなければならない。

参考文献

1)【緊急報告】読売巨人軍・澤村投手への施術報道の検証,医道の日本 第76 巻 第11 号(通巻890号),p.27-32,2017
2)鍼灸団体, 沢村のはり施術ミス疑いで巨人回答書公開, 日刊スポーツ2017年11月9日
https://www.nikkansports.com/baseball/news/201711090000537.html
3)巨人・澤村の鍼トラブル 被害者なのに同情されない理由, 週刊ポスト2017年9月29日号
https://www.news-postseven.com/archives/20170918_613856.html
4)エドワード・W・サイード著,板垣雄三・杉田英明監修,今沢紀子訳:オリエンタリズム(下)第1版18刷,平凡社,東京,p.345,1993
5)エドワード・W・サイード著,板垣雄三・杉田英明監修,今沢紀子訳:オリエンタリズム(上)第1版26刷,平凡社,東京,p.203,1993
6)エドワード・W・サイード著,板垣雄三・杉田英明監修,今沢紀子訳:前掲註4),p.244
7)エドワード・W・サイード著,板垣雄三・杉田英明監修,今沢紀子訳:前掲註4),p.393
8)エドワード・W・サイード著,板垣雄三・杉田英明監修,今沢紀子訳:前掲註4),p.364
9)新庄俊昭:教養講座 琉球・沖縄史,東洋企画,沖縄,p.267,2014
10)池間榮三:与那国の歴史 第7 版,琉球新報社,沖縄,p.70,1999
11)エドワード・W・サイード著,板垣雄三・杉田英明監修,今沢紀子訳:前掲註4),p.369
12)青木保:逆光のオリエンタリズム 第1 版2 刷,岩波書店,東京,p.3-4,1998
13)【 巻頭企画】筋膜と発生学の新知識でわかった! 経絡経穴ファッシア論―鍼灸はなぜ効くのか―,医道の日本 第77 巻 第6 号(通巻897 号);p.29-35,2018