衞藤 友親
明治大学体力トレーナー
はじめに
腹部への指圧は前頸部への指圧と並び、浪越式基本指圧の特徴的施術部位と認識されることがあります。腹部指圧は様々な症状に対して高い治療効果を導く施術部位であることが経験論的に知られ、その生理機序に関する科学的研究も進められていますが、その道のりはまだまだ途上であると思います。
科学的研究は私たちの目指すべき「根拠に基づいた医療」の軸のひとつでもあります。論文を記すにはまず疑問点に着目し、実験スタイルをデザインし、被検者を募り、計測環境に気を配り、結果を統計処理し考察をまとめなければなりません。それはかなりの労力を要するものでありますが、その困難を乗り越えてこそより精度の高い「根拠に基づいた医療」に近づくものだと考えております。
しかしながら他方、実験や臨床の事例に分類できない事象であっても指圧の科学的考察の補強に寄与し得る可能性も否定できません。科学的議論のきっかけになることも期待しつつ、腹部指圧が誘発する生理機序について汎動物学的観点から考察したいと思います。この方法は科学的根拠を踏まえた方法とは言い難いので、指圧研究のフィールドワーク的手法も模索しつつ随筆として記述します。
対象観察までの背景
私は年間約40鞍程度ウエスタンスタイルで騎乗する乗馬愛好者です。以前、ウマを対象として前頚部指圧の研究1)をしました。研究では普段からよく利用する御殿場市と山中湖村にある乗馬クラブのウマたちを対象としました。ウマにもイヌのように様々な種類があり、主に乗用とされるのはアラブ、クォーター、アパルーサ、ミックスなどです。
他方、それら一般的な乗用馬とは別に、古来より日本国内で農耕や戦闘や運搬等に用いられていた種類もいます。これらいわゆる在来馬は現在よく目にする馬種より小型で、性格も温厚であるとされています。しかし明治期には富国強兵政策の一環である馬匹改良計画の下に、在来馬と大型種の交配が奨励されました。その結果、在来馬は政策の行き渡らなかった半島の先端や離島など全国に8種を残すのみとなりました。更に時代が下り、今や農耕や運搬も機械化され、在来馬の役割も乗用やホースセラピーなどに限定されています。故に頭数の維持が課題となっています。
沖縄県には島が多いので、前述の理由により宮古馬と与那国馬と言う在来馬が生息しています。特に与那国馬は一般社団法人ヨナグニウマ保護活用協会の活動により積極的な利活用の道が模索されています。
与那国島では南国の気候を活かして、騎乗したままウマと一緒に海に入っての常歩(なみあし)や速歩(はやあし)を体験できます。また騎乗だけでなく尻尾につかまって泳いだり、海水で馬体を洗ったりマッサージしたり、砂浴びをさせたりすることもプログラムに含まれ、それらを「海馬(うみうま)遊び」と呼んでいます。
状況
2015年9月、乗馬愛好者としてかねてより興味のあった海馬遊びを与那国島ナーマ浜にて体験する機会を得ました。ウマとふれあい、馬体を洗い、マッサージをしたその時、馬体の腹部の形状の違いに気付きました。ウマはイヌやネコに比べれば身近な動物ではないので、ウマの腹部に触れる機会は滅多に無いと思いますが、普通に乗馬を楽しむ場合でもブラシをかける時に腹部に触れます。まして筆者の場合、基本的に騎乗後にはウマに指圧とマッサージを施すので、ウマの腹部には日常的に触れ慣れていました。故に海馬遊びの時のウマの腹部の形状には驚きました。ウマが仰臥位で腹部指圧を受けたならば、まさにこの形状になるだろうな、と直感しました。
与那国馬は体高(地上から肩の一番高いところ、およそ第2~4胸椎棘突起付近までの高さ)が110~120cmと他種に比べて低く、海中に四肢が浸かった状態でも腹部に触れるのは容易でした。常態が四足歩行のウマの内臓は、前肢と後肢の間にぶら下がっている状態で存在し機能しています(図1)。四足歩行の動物が体側(胴体)の下から3分の2くらいまで水に浸かった場合、浮力により内臓全般が脊柱側(上方)に押し上げられることにより、陸上では触知困難な肋骨弓が触知可能となります(図2)。この、腹部に圧力(浮力)が与えられた状態の与那国馬の腰背部脊柱両側に指圧を施したところ鼻孔が水面に浸かるほどに頭を下げる様子が観察されました(図3)。
考察
旅行中の体験だったので、残念ながら心拍計等による計測はできませんでした。しかし、指圧を施された与那国馬が鼻孔を水面に浸けても平気なくらいに頭を垂れていることから、おそらく呼吸数が減少していることが推察されます。指圧をしなかった他の個体にはこの様な姿は見られなかったので、四肢および腹部を海水に浸しただけでは観察されない反応だと考えます。野生動物において腹部の圧迫は溺死の危険もしくは仰臥で被食者としての状況など、生命の危機を意味するものと考えます。
水圧・水温・刺激部位・種別など相違点は多々あるものの、ヒトにおいても水に顔を浸けると心拍数が減少する潜水反射2)があることが知られています。呼吸数の減少は防衛反応の一種とも考えられます。ヒトの腹部への指圧では心拍数の低下4)、血圧の低下5)、立位体前屈の改善6)、胃の蠕動運動の増大7)、瞳孔直径の縮小8)などが報告されています。呼吸数の直接計測の報告はありませんが、心拍数の低下から呼吸数の低下が類推されます。少々強引ではありますが、ヒトとウマは腹部指圧によって同じような生理反応が起こる可能性があり、ウマの前頚部に指圧を施した研究3)を補強するかもしれません。更に、前頚部に始まり腹部に終わる浪越式基本指圧の施術順序の合理的説明のヒントとなるかもしれません。
また、ヒトでは胃の蠕動運動に関しては前頚部への指圧では増大せず9)、瞳孔直径は前頚部への指圧中ではなく直後から縮小する10)ことも報告されています。
ヒトも動物の一種である以上、千変万化する自然環境に適応しながら生活してきたことは想像に難くありません。生命の危機に瀕した場合に、より高確率での生命維持メカニズムを発動した個体たちの末裔が現在のヒトであるとも言えます。そこで培われたメカニズムのひとつ又はいくつかの複合体が現在「自然治癒力」と呼ばれている能力なのではないかと考えます。前頚部の指圧で惹起されない反応が腹部では観察されたり、前頚部のみでも腹部のみでも同様の反応が観察されるものの、発現までに時間差があったりと、何万年もかけて編み出されたであろうメカニズムを理解するには、より多方面からの切り口が必要な気がします。また、なぜ指圧がそれらの自然治癒力発動のスイッチと成り得るのかを解明していくにはまだまだ時間がかかりそうです。
おわりに
今後も指圧に対する「なぜ?」を日常的に心に抱きながら、多方面の方々の協力に感謝して研究を続けていきたいと思います。
参考文献
1)衞藤友親:ウマを対象とした前頚部指圧による心拍数の変化,日本指圧学会誌(3);p.16-19,2014
2)山本義春:脳と心―水中と陸上でのヒト―.http://www.p.u-tokyo.ac.jp/~yamamoto/jres_12/jres_12.html
3)衞藤友親 他:前頚部指圧による呼吸商の変化,日本指圧学会誌(1);p.11-13,2012
4)小谷田作夫 他:指圧刺激による心循環系に及ぼす効果について,東洋療法学校協会学会誌22号;p.40-45,1998
5)井出ゆかり 他:血圧に及ぼす指圧刺激の効果,東洋療法学校協会学会誌23号;p.77-82,1999
6)宮地愛美 他:腹部指圧刺激による脊柱の可動性に対する効果,東洋療法学校協会学会誌29号;p.60-64,2005
7)黒澤一弘 他:腹部指圧刺激による胃電図の変化,東洋療法学校協会学会誌31号;p.55-58,2007
8)栗原耕二朗 他:腹部の指圧刺激が瞳孔直径に及ぼす効果,東洋療法学校協会学会誌34号;p.129-132,2010
9)加藤良 他:前頚部指圧が自律神経機能に及ぼす効果,東洋療法学校協会学会誌32号;p.75-79,2008
10)横田真弥 他:前頚部・下腿外側部の指圧刺激が瞳孔直径に及ぼす効果,東洋療法学校協会学会誌35号;p.77-80,2011