カテゴリー別アーカイブ: Vol.4 2015

足底部への指圧刺激が重心動揺に与える影響について(第1報):星野喬一、日比宗孝

星野 喬一,日比 宗孝
日本指圧専門学校 
石塚 洋之
日本指圧専門学校専任教員

Effects of Plantar Region Shiatsu Treatment on the Variance of Center of Gravity

Koichi Hoshino, Munetaka Hibi / Yosuke Ishizuka

Abstract : There are few studies on the effects of plantar region shiatsu treatment on the motor system. In this study, the effects of plantar region shiatsu treatment on balance in the upright position were verified using a stabilograph. Four healthy subjects underwent plantar region shiatsu treatment with each session lasting for 1 min and 42 s. Our results show no significant differences between the shiatsu group and the control group for total trajectory, outer circumference area, rectangle area, or effective value area. Revision of both the subject population and the methods used are needed for further research on this topic.

Keywords: Shiatsu, plantar region, variance of center of gravity, balance in the upright position


I.はじめに

 足底部は指圧施術に於いても、対処する症状などに応じて多様な解釈のもとにアプローチされ、また、経験的にも施術による効果が実感として様々に語られる部位であると言える。

 しかし、本邦の手技療法の分野に於いて、この部位への施術と運動器系への影響を関連付けた研究はまだ多くは見られない。

 今回われわれは足底部への指圧施術が足底部の筋や構造、また、そこから連動する運動機能へ与える影響を明らかにするための研究の端緒として、重心動揺計による立位バランスの変化の計測、検討をプレ実験の段階まで進めた。そこから得られた結果と、今後の課題のまとめを中間報告する。

Ⅱ.実験方法

1.対象

 対象は本校学生の健常者4名(男性4名、平均年齢30±10.68歳)で、事前に十分な実験内容の説明をして同意を得た上で行った。

2.実験期間・場所

 2015年1月29日から2015年2月5日まで、本校のラウンジスペースで行った。

3.計測方法

 重心動揺計測には重心動揺計(アニマ社製 グラビコーダGS-10タイプC)を用い、足部内側縁を揃えた直立位で胸の前に両腕を組んだ姿勢にて、閉眼でそれぞれ1分間の計測を行った。計測結果として10種類の計測値を取得した(総軌跡長、単位軌跡長、単位面積軌跡長、外周面積、矩形面積、実効値面積、動揺平均中心偏位 X軸、動揺中心偏位 X軸、動揺平均中心偏位 Y軸、動揺中心偏位 Y軸)。

4.刺激方法

(1)刺激部位

 浪越式指圧の基本圧点に従い、伏臥位にて足底部の第2趾と第3趾の付け根を1点目とし、踵の際まで4点を両手母指圧にて刺激した(図1)。

図1.足底部4点図1.足底部4点

(2)刺激時間・方法

 1点圧3秒、4点3通り行い、その後、3点目を1点圧3秒3回行い、左右で約1分42秒行った。圧刺激は通常圧法(漸増、持続、漸減)にて快圧(被験者が心地よいと感じる程度の圧)にて実施した1)。

5.実験手順

 被験者の学習効果を平均化することを目的として、被験者を無作為にAグループ2名、Bグループ2名に分け、Aグループは無刺激群を先、刺激群を後の実験計測日程で行い、Bグループは刺激群を先、無刺激群を後の実験計測日程で行った(図2)。

図2.実験計測日程と学習効果の平均化図2.実験計測日程と学習効果の平均化

(1)刺激群  

以下の手順で行った。
①座位にて3分間安静。
②1回目の重心動揺計測。
③座位にて3分間安静。
④2回目の重心動揺計測。
⑤足底部指圧刺激。
⑥座位にて3分間安静。
⑦3回目の重心動揺計測。

(2)無刺激群

 以下の手順で行った。
①座位にて3分間安静。
②1回目の重心動揺計測。
③座位にて3分間安静。
④2回目の重心動揺計測。
⑤伏臥位1分42秒安静。
⑥座位にて3分間安静。
⑦3回目の重心動揺計測。

vol4_01table1表1. 実験手順

6.統計処理

 重心動揺計測で取得した計測値のうち、総軌跡長、外周面積、矩形面積、実効値面積に関して、2回目の計測値に対する3回目の計測値の変化の割合を、無刺激群と刺激群との間で対応のあるT検定にて比較した。

Ⅲ.結果

1.総軌跡長(図3)

 無刺激群での変化割合85.5±7.2%(mean±SE)に対して、刺激群での変化割合92.9±7.0%となり有意差は見られなかった(p<0.595)。

図3.総軌跡長図3.総軌跡長

2.外周面積(図4)

 無刺激群での変化割合90.6±17.8%に対して、刺激群での変化割合79.6±13.3%となり有意差は見られなかった(p<0.744)。

図4.外周面積図4.外周面積

3.矩形面積(図5)

 無刺激群での変化割合79.3±14.9%に対して、刺激群での変化割合79.4±13.9%となり有意差は見られなかった(p<0.996)。

図5.矩形面積図5.矩形面積

4.実効値面積(図6)

 無刺激群での変化割合92.0±23.8%に対して、刺激群での変化割合90.6±17.6%となり有意差は見られなかった(p<0.975)。

図6.実効値面積図6.実効値面積

Ⅳ.考察

 本研究は足底部への指圧刺激による立位バランスへの影響を検討するものであった。これは立位バランスに対する足底部への感覚刺激の影響を報告する先行研究から2〜6)、指圧刺激によっても同様の影響があることを仮定してのものであった。

 今回、プレ実験の段階としては、足底部への指圧刺激によるバランスへの影響を裏付ける計測、解析結果は得られなかった。しかし、個々のサンプルの観察に於いては指圧刺激の影響が示唆される傾向のものも見られ、サンプル数を増やす段階の実験では違った結果が得られる可能性も考えられる。

 その一方、今回のサンプルから得られた計測値の全てが、健常者と見なされる標準値の範囲7)に収まる結果となっている。そして、その様な範囲に収まる計測値に於いては、被験者の学習効果及び、検査方法の統一では平均化し得ない身体のコンディションによって、容易に計測値が変化することが推測された。そのため重心動揺計で得られる計測値の比較のみでは指圧刺激による立位バランスへの影響の十分な検討が困難であると考えられた。 今後の課題として、実験対象の検討、並びに重心動揺計とは異なる計測事項と手法を追加し、それらから得られる検査結果を複合的に分析するような実験手法の検討が必要であると考える。

Ⅴ.結論

 健常者4名を対象とした足底部への指圧刺激では、重心動揺計での計測値に有意な変化は見られなかった。 現段階の実験方法には限界があり、足底部への指圧刺激による立位バランスへの影響を検討する上では不十分であるため、実験手法の再検討が必要であると考えられる。

VI.参考文献

1) 石塚寛 他:指圧療法学,p.96,国際医学出版株式会社,2008
2) 大久保仁 他:足蹠圧受容器が重心動揺に及ぼす影響について,耳鼻臨床 72,p.1553-1562,1979
3) 伊藤綾乃 他:足底触圧覚が立位姿勢の重心動揺に与える影響,日本理学療法学術大会2004,A1113-A1113,2005
4) 宇都宮裕葵 他:感覚刺激が静的立位に及ぼす影響,日本理学療法学術大会2005,A0853-A0853,2006
5) 亀井省二 他:足底の感覚刺激が重心動揺に与える影響について,藍野学院紀要20,p.27-40,2006
6) 野瀬友裕 他:母趾足底部への触圧刺激が姿勢制御に及ぼす影響,日本理学療法学術大会2009,A4P2047-A4P2047,2010
7) 今村薫 他:重心動揺検査における健常者データの集計,Equilibrium research. Supplement 12,p.15-23,1997


【要旨】

足底部への指圧刺激が重心動揺に与える
影響について(第1報)
星野 喬一*1,日比 宗孝*1/石塚 洋之*2

 指圧では頭痛やめまいに対する治療法があり、内耳や脳の循環改善や血流の改善を治療方針としている。内耳や脳に影響があるというならば、聴力にも何らかの作用があるのではないかと思い、指圧施術がどう影響するのか関心があった。そこで、老人性難聴患者に指圧を行い、血圧・脈拍数・体温・聞こえのVAS値がどう変化するかを観察した。その結果、収縮期血圧に有意な低下が見られ、体温に有意な上昇が認められたが、VAS値には有意な減少は認められなかった。しかし、施術後VAS値が低下傾向を示したことや、電子音への反応の改善を見られたことから、指圧療法が老人性難聴の治療に貢献できる可能性があると考える。

キーワード:指圧、足底部、重心動揺、立位バランス

*1 日本指圧専門学校 指圧科  
*2 指導教員(日本指圧専門学校  教員)


全身指圧による心理的影響を測定した一例:大木慎平

大木 慎平
ねこのて指圧 代表

Measurement of the Psychological Influence of Full Body Shiatsu Therapy: a Case Report

Shinpei Oki

Abstract : With the aim of reducing psychological stress, a female patient in her twenties had three sessions of full body shiatsu therapy between 5/24/2015 and 6/7/2015. The psychological influence of the full body shiatsu therapy was measured using the Profile of Mood States (POMS). After the course of the full body shiatsu therapy, all the T-scores of the six factors improved. This suggests that the full body shiatsu therapy has a stress-relief effect, and further studies are required to verify this.

Keywords: shiatsu, stress, POMS


I.はじめに

 現代社会はストレス社会ともいわれるように、多くの人が精神的ストレスにさらされながら生活している1)。我が国においては、ストレスケアを目的として代替医療が用いられるケースも多く、あん摩、マッサージ、指圧などの手技療法もその選択肢に含まれる。

 ストレス緩和を目的とした手技療法の研究は多数行われており2〜5)、有用な効果を得ていることを確認出来る。ストレスに対する指圧治療の研究も行われてはいる6)が、施術者が患者に対して行う一般的な指圧治療の効果に関しては、検討が十分になされているとは言い難い。そこで今回、精神的ストレスを感情・気分尺度の面から評価し、全身指圧がストレス緩和に効果をあらわした症例を得られたので、将来的な調査に先駆け報告する。

Ⅱ.対象および方法

対象

 20代女性、事務職

期間

 2015年5月24日~6月7日 (計3回)

場所

 患者自宅

治療方法

 横臥位に始まる浪越式全身指圧操作法

評価方法

 心理的影響の評価として各治療日の施術開始直前と、施術終了直後に日本語版POMSTM(金子書房)を実施した。POMSはMcNairらにより米国で開発された気分プロフィール検査で、気分の状態に関する65の質問項目に回答することで、緊張-不安(Tension-Anxiety)、抑うつ(Depression)、怒り-敵意(Anger-Hostility)、活気(Vigor)、疲労(Fatigue)、混乱(Confusion)の6つの因子を同時に測定することが可能である7)。今回得られたPOMSの結果は、粗得点をT得点に換算し集計した。POMSは健康成人男女を対象に大規模な集団で実施され、標準化されており、年齢、性別ごとの平均値、標準偏差からT得点が算出される。T得点は50+10×(粗得点-平均点)/ 標準偏差で算出され、粗得点が平均であればT得点は50になる。T得点が低いほど、緊張-不安、抑うつ、怒り-敵意、活気、疲労、混乱の状態が低いことが示される。つまり、活気についてはT得点が高いほど良い状態を示すということになる7)

 患者に対しては、POMSの趣旨と計測方法を十分に説明し、研究への協力に同意を得た。

Ⅲ.結果

[現病歴]

 2015年4月に部署の異動があり、まだ新しい職場や仕事に馴染めず、日々強いストレスを感じている。仕事はほぼVDT(Visual Display Terminals)作業で、1日7時間以上PC入力作業を行っている。

[既往歴]

 鼡径ヘルニア(2013年に手術済み)

[家族歴]

 特記すべき事項なし

[自覚所見]

  • 睡眠障害
    精神をリラックスできずに、寝つきが悪い日がある。寝ようと意識すればするほど眠れなくなる。
  • 頸、肩こり、腰痛
    慢性的に頸、肩はこり固まった感じがする。同じ姿勢をとり続けることが多いためか、腰を反らすとぎしぎしと痛む。

[診察所見]

  • 視診
    顔色は血色悪く、クマも見られる。顎周囲に多数のニキビを確認した。姿勢はforward head postureで腰椎後弯の増強がみられる。
  • 触診
    頸部…前・中斜角筋、頭板状筋、小・大後頭直筋、頭半棘筋に硬結を確認。下位頸椎のアライメント不整もみられる。
    肩背腰部…僧帽筋上部線維、肩甲挙筋、腰方形筋に硬結を確認。
    腹部…下腹部に力がなく、下行結腸部(臍左部)に硬結を確認。

[治療第1回(2015年5月24日)]

  • 背部のこわばりが緩和された。
  • 施術直後は全身の力が抜けた感じがして、少し眠気がある。

[治療第2回(2015年5月30日)]

  • 前回施術後の夜はよく眠れ、翌朝も起床時の身体の重だるさを感じなかった。
  • 普段より頸、肩のこりは軽度な気がする。

[治療第3回(2015年6月7日)]

  • 施術後しばらくはよく眠れる。起床時も比較的すっきりとしている。
  • 頸、肩のこりは感じるが、ひどくはない。腰もややこわばった感じがあるが、痛むほどではない。
  • 自覚としてもストレスの軽減を感じる。

 全3回の治療前後で計測したPOMSのT得点を示す(表1)。5月24日の不安、5月30日の活気の項目を除き、いずれの項目も治療直後は数値の改善を示し、治療回数を重ねるごとに概ね改善の傾向を示した(図1)。

表1.POMS 6項目のT得点表1.POMS 6項目のT得点

図1.POMS 6項目のT得点の変化図1.POMS 6項目のT得点の変化

Ⅳ.考察

 今回の患者に対しては、全3回の治療を経て6項目の全てで改善が確認された。蒲原らは腹部の指圧、浅井らは腰背部の指圧により交感神経活動が抑制される可能性を示している8〜9)。また、横田、渡辺、田高らはそれぞれ前頸部、下腿、仙骨部、頭部の指圧で縮瞳反応が生じることを報告しており、交感神経活動の抑制、もしくは副交感神経活動の亢進が生じる可能性が示されている10〜12)。今回患者に対し行ったのは全身指圧であり、前述の部位に対しては網羅的に指圧刺激が施されているため、同様の作用で交感神経活動の抑制、ならびに副交感神経活動の亢進が生じることにより、リラクゼーション効果が得られた可能性がある。また、加藤は拘束ストレスラットに対する鍼通電刺激により、脳各部位のドーパミンやセロトニンなどのモノアミン分泌が正常化に向かうことを報告しており13)、指圧刺激でも同様の機序が生じる可能性が考えられる。

 今回のような一症例だけでは、ストレスに対する指圧の効果を論じるには不十分である。ストレス緩和の手段としての指圧の有効性を検証するためにも、統計学的手法に基づいた調査が求められるため、今後の研究課題としたい。

Ⅴ.結論

 全3回の全身指圧治療で、POMSの6項目全てで改善がみられた。

参考文献

1) 内閣府HP:平成20年度版国民生活白書,2008
2) Kober, A., Scheck,T.他:Auricular acupressure as a treatment for anxiety in prehospital transport setting,Anesthesiology 98,p.1328-1332,2003
3) 佐藤都也子:健康な成人女性におけるハンドマッサージの自律神経活動および気分への影響,山梨大学看護学会誌 4(2),p.25-32,2006
4) 藤田佳子:背部マッサージによる成人男性の身体的・心理的影響,宇部フロンティア大学看護学ジャーナル 4(1),p.37-43,2011
5) 坂井桂子 他:健康な女性に対するタクティールケアの生理的・心理的効果,日本看護研究学会雑誌 35(1),p.145-152,2012
6) 本田泰弘 他:セルフ経絡指圧が気分に及ぼす急性効果とそのユーザビリティーに関する研究,健康支援 15(1),p.49-54,2013
7) 横山和仁:日本語版POMS手引,1-7,金子書房,東京,1994
8) 蒲原秀明 他:末梢循環に及ぼす指圧刺激の効果,東洋療法学校協会学会誌 (24),p.51-56,2002
9) 浅井宗一 他:指圧刺激による筋の柔軟性に対する効果,東洋療法学校協会学会誌 (25),p.125-129,2001
10) 横田真弥 他:前頚部および下腿外側部の指圧刺激が瞳孔直径に及ぼす効果,東洋療法学校協会学会誌 (35),p.77-80,2011
11) 渡辺貴之 他:仙骨部への指圧刺激が瞳孔直径・脈拍数・血圧に及ぼす効果,東洋療法学校協会学会誌 (36),p.15-19,2012
12) 田高隼 他:頭部への指圧刺激が瞳孔直径・脈拍数・血圧に及ぼす効果,東洋療法学校協会学会誌 (37),p.154-158,2013
13) 加藤麦:拘束ストレスラットへの鍼通電刺激の脳内モノアミンに及ぼす影響,明治鍼灸医学 (27),p.27-45,2000


【要旨】

全身指圧による心理的影響を測定した一例
大木 慎平

 本症例では、20代女性に2015年5月24日~6月7日にかけて心理的ストレス改善を目的として計3回の全身指圧を施し、それによる心理的影響をPOMS(Profile of Mood States)を指標として計測した。施術の結果、POMSにおける6項目すべてのT得点に改善がみられた。以上のことから、ストレス緩和に対する全身指圧の有効性を検証するのは意義のあるものと推測する。

キーワード:指圧、ストレス、POMS


頸部外傷性脊髄損傷の診断を受けたが末梢神経障害であったと思われる患者に対する指圧療法:丸山一郎

丸山一郎
日本指圧専門学校 53期卒業生

Shiatsu Therapy for a Patient with Suspected Peripheral Neuropathy
while Diagnosed with Traumatic Cervical Spinal Cord Injury

Ichiro Maruyama

 

Abstract : A patient with traumatic cervical spinal cord injury and suspected peripheral neuropathy (flaccid paralysis of the lower extremities) was treated with shiatsu therapy with the aim of releasing dorsal muscle tension. After a course of 29 sessions of shiatsu therapy, the lower-limb motor function recovered. This suggested the presence of significant muscle hypertonicity alongside the spine was significantly related to the motor dysfunction caused by the peripheral neuropathy. Considering other reports on the improvement of muscle flexibility with shiatsu therapy, we conclude that in our patient, the release of muscle tension by the shiatsu therapy improved blood circulation and the range of motion of the spine, leading to recovery in motor function.

Keywords: flaccid paralysis of the lower extremities, shiatsu therapy, dorsal muscle tension


I.はじめに

 脊髄損傷とは脊柱管の中に保護されている脊髄の損傷である。脊髄損傷レベルにより運動障害・呼吸障害・循環器障害・排尿障害・消化器障害などの症状を呈する。治療は初期治療と慢性期治療に分け、初期治療では薬物療法・局所安静・頭蓋牽引・手術、慢性期治療ではリハビリテーションが中心となる。今回、頸部外傷性脊髄損傷の診断を受けた患者に施術を行い症状がほぼ消失したので報告する。

Ⅱ.対象および方法

場所

 患者宅

期間

 平成26年8月25日~12月1日 (治療回数29回)

施術対象

 82歳女性

現病歴

 46年前に頸部外傷性脊髄損傷を発症、リハビリにより上肢の運動機能は回復するが、下肢は麻痺(対麻痺)が残存、それ以来車椅子となる。6年くらい前に右上腕骨骨折、その後、化膿性骨髄炎による右腕切断。2年くらい前に結核と診断され結核病棟に入院、その後寝たきりとなる。退院後、上肢・背部の疼痛があらわれ、疼痛緩和の目的で訪問マッサージを受けることとなった。

既往歴

 脊髄損傷による対麻痺(循環器障害・排尿障害・消化器障害)胆嚢癌・膵臓癌・結核・化膿性骨髄炎による右腕切断

治療法

  • 横臥位における頸部・背部・仙骨部・臀部指圧
  • 仰臥位における左上肢・下肢指圧(両下肢に重点を置く)

評価

  • 10段階のVASを用いて疼痛の評価を行った。
  • 徒手筋力テスト(MMT)

III.結果

8月25日(第1回)
 [術前所見]
 自覚所見

  • 腰部から下の運動麻痺と感覚障害。
  • 膝から下の痺れ感あり。
  • 膀胱直腸障害あり。
  • 上肢・背部の疼痛。
  • 冷えのぼせ(頸部より上の多汗)

 他覚所見

  •  左肩関節可動域制限。
  • 下肢弛緩性麻痺と感覚障害。
  • 背部から臀部にかけての疼痛。

 [術後所見]

  • 血流改善により冷えのぼせ感が軽くなった。
  • 疼痛が軽減された。

9月4日(第4回)
 [術後所見]

  • 背部の筋緊張が和らぐ。(胸腰移行部)
  • 大腿内側の疼痛がとれる。
  • 大腿部の感覚が戻りはじめる。(大腿神経・閉鎖神経)
  • 大腿部の筋収縮がみられる。(内転筋)

9月8日(第5回)
 [術後所見]

  • 足底の疼痛がとれる。
  • 仙骨部の指圧が気持ち良かった。

9月18日(第8回)
 [術後所見]

  • 尿意、便意を感じる。(膀胱直腸障害の改善)
  • 大腿部の感覚が戻る。

10月2日(第12回)
 [術後所見]

  • 大腿部の筋収縮がみられる。(大腿神経・閉鎖神経)

10月30日(第20回)
 [術後所見]

  • 大腿部の筋収縮がみられる。(坐骨神経)

11月6日(第22回)
 [術後所見]

  • 股関節の動きがみられる。(屈曲・伸展・外旋・内旋)
  • 膝関節の動きがみられる。(屈曲・伸展)
  • 左肩関節が安定し疼痛がとれる。
  • 膝下の感覚が変わった。

11月17日(第25回)
 [術後所見]

  • 足関節と足指の動きがみられる。〈屈曲・伸展)横臥位
  • 軽度ブリッジが出来る。(臀部挙上)

12月1日(第29回)
 [術後所見]

 自覚所見

  • 踵骨部の痺れ感がある。
  • 疼痛の発生がなくなった。

 他覚所見

  • 腰から下の運動機能回復。
  • 膀胱直腸障害改善

表1.疼痛に対するVAS値10段階(術後)表1.疼痛に対するVAS値10段階(術後)

表2.下肢の徒手筋力テスト(MMT)表2.下肢の徒手筋力テスト(MMT)

IV.考察

 脊髄損傷の多くは外力によって脊椎の脱臼骨折が起こり、それに伴って脊髄が損傷されるものである。脊髄損傷の発生したレベルと程度(完全麻痺か不完全麻痺)によって特色があるが、損傷発生直後には脊髄ショックに陥り、損傷レベルから下位の脊髄は自律性を失う。すなわち運動、知覚、深部腱反射等すべてが消失した弛緩性麻痺となり、同時に自律神経機能も低下する。回復期を過ぎると損傷脊髄以下の反射機能は回復して痙性麻痺となり、深部腱反射は亢進してくる1)
 本症例は、受傷後から現在に至るまで弛緩性麻痺の状態だったことから脊髄損傷までは考えられず、脊髄圧迫であったと考えることができる。すなわち下位運動ニューロン障害が考えられ、脊髄損傷レベルとADLレベルで照らし合わせると、T1(上肢は正常、自由な車椅子動作可能)は可能、T6(循環系の安定)は安定しないので上位胸髄での異常があると判断した。診察所見として胸椎弯曲がほとんどなくストレートであった。その為に背部筋緊張が亢進し下位運動ニューロン障害を引き起こし、疼痛および運動機能障害が起きている推測することができる。
 上記より脊髄圧迫による末梢神経障害との判断のもと、本症例に対し疼痛の緩和と運動機能回復を目的として、指圧施術を行った。その結果、29回の施術により踵骨部の感覚障害は一部残るものの、疼痛を指標としたVAS値が減少し(表1)、徒手筋力テストにおける筋力の回復がみられた(表2)。仮に本症例が脊髄損傷であった場合、今回のような短期的な機能回復は考えづらい2〜3)。よって本症例については、筋緊張の亢進による神経絞扼が原因でおこった末梢神経障害が指圧療法により回復したと考えるのが妥当である。
 本症例の末梢神経障害による運動機能障害には、脊髄側の筋緊張亢進が少なからず関与していると考えられる。指圧刺激により筋の柔軟性が向上する報告がある4〜6)ことから、筋緊張緩和・血行促進・脊柱可動域の改善がされ、運動機能の回復に至ったと考える。

V.結論

 長年の末梢神経障害(疼痛と運動機能障害)を患っても、指圧療法での回復の可能性がある。

VI.参考文献

1) 奈良信雄 他:(社)東洋療法学校協会臨床医学各論(第2版)脊髄損傷,医歯薬出版株式会社,p.171-173,2010
2) 眞野行生:末梢神経障害のリハビリテーション(社)日本リハビリテーション医学会誌28(6),p.453-458
3) 西脇香織 他:末梢神経損傷後の神経再生とリハビリテーション(社),日本リハビリテーション医学会誌39(5),p.257-266,2002
4) 浅井宗一 他:指圧刺激による筋の柔軟性に対する効果(社),東洋療法学校協会学会誌(25),p.125-129,2001
5) 菅田直記 他:指圧刺激による筋の柔軟性に対する効果(第2報),(社)東洋療法学校協会学会誌(26)p.35-39,2002
6) 衛藤友親 他:指圧刺激による筋の柔軟性に対する効果(第3報),(社)東洋療法学校協会学会誌(27)p.97-100,2003


【要旨】

頸部外傷性脊髄損傷の診断を受けたが末梢神経障害であったと思われる患者に対する指圧療法
丸山 一郎

  今回、頸部外傷性脊髄損傷との診断を受けたが、末梢神経障害(下肢弛緩性麻痺)であったと思われる患者に指圧療法を行った。背部筋緊張の緩和を目的に施術を行った結果、29回の施術で下肢運動機能の回復に至った。末梢神経障害による運動機能障害には、脊髄側の筋緊張亢進が少なからず関与していると考えられる。指圧刺激による筋の柔軟性が向上する報告などもあることから、指圧によって筋緊張緩和したことにより血行促進・脊柱可動域の改善がされ、運動機能の回復に至ったと考える。

キーワード:下肢弛緩性麻痺、指圧療法、背部の筋緊張


押圧操作と運動操作の併用により姿勢矯正が認められた一例:新倉玄太

新倉玄太
げんた治療院 院長

A case of posture correction by a combination of pressure application and exercise therapy

Genta Niikura

Abstract : Many people with subjective symptoms such as stiff shoulder or low back pain are encountered in clinical practice. Here we report a case where shiatsu therapy helped the patient achieve symptom relief and better posture. Shiatsu therapy not only released the muscle tension but also adjusted the joints. Shiatsu therapy involves a combination of pressure application and exercise therapy, and it is possible that this combination had effects on both muscles and joints and helped achieve the favorable outcomes in the present case.

Keywords: shiatsu therapy, pressure application, exercise therapy, posture correction


I.はじめに

 指圧治療において、筋、軟部組織への押圧操作だけで筋緊張を緩めることができても、数日後または数週間後に同様の症状に悩まされてしまう患者が臨床現場で多く見られる。そのような症例に対し継続的に姿勢矯正、関節の調整も並行して行うことにより治療効果を向上させることができるのではないかと考えた。

 今回、押圧操作と運動操作を同時にまたは併用して行うことにより、関節の調整をし、姿勢矯正することで高い治療効果を上げることができた症例を報告する。

Ⅱ.対象および方法

施術対象

 30代女性 保育士

場所

 当院

期間

 2014年3月30日~4月12日

主訴

 かがんでの作業が多いため腰痛、猫背で肩こりがひどい、職場の人に姿勢が悪いと言われ気にしている

治療法

 全身指圧1)および肩関節、股関節、仙腸関節の運動操作

  • 円背に対して
    伏臥位にて脊柱掌圧、棘突起調整
  • 肩関節過内旋に対して
    横臥位にて
    肩甲骨上角、鎖骨下、烏口突起に押圧操作
    プラス、肩甲骨の調整操作
  • 腰椎後弯に対して
    仰臥位にて、腹部掌圧・鼠径部掌圧
    腹臥位にて、股関節・仙腸関節調整
  • 骨盤後傾に対して
    仰臥位にて、腹部・鼠径部掌圧
    伏臥位にて、股関節・仙腸関節調整

III.結果

第1回(平成26年3月30日)
[術前所見]

  • 自覚症状:かがんでの作業が多いため腰痛、猫背で肩こりがひどい。
    職場の人に姿勢が悪いと言われ気にしている。
  • 他覚所見:骨盤過後傾、円背、肩関節過内旋がみられる(図1)。

[術後所見]

  • 自覚所見:肩こりや腰痛を感じにくくなった。
    同じ姿勢を続けても、仕事中辛さを感じにくくなった。
  • 他覚所見:骨盤が前傾位になり腰椎が前弯したため腰部の筋の緊張が緩和された。
    肩甲骨の位置が改善されたため肩関節の内旋が改善された(図2)。

vol4_04fig1

第2回(平成26年4月12日)
[術前所見]

  • 自覚所見:周りの方から姿勢が改善されたと言われた。
    腰痛が緩和している。
  • 他覚所見:骨盤の前傾が保たれている。
    肩関節過内旋の所見が見られる(図3)。

[術後所見]

  • 自覚所見:肩こり腰痛の症状が軽減された。
    同じ姿勢を続けても痛みを感じにくくなった。
  • 他覚所見:肩関節過内旋が改善されている(図4)。
    関節の位置の調整を行ったことで筋肉の緊張も緩和されている。

vol4_04fig2

IV.考察

 厚生労働省の国民生活基礎調査2)によれば、日本国民が普段感じている自覚症状の1位、2位が男女とも肩こり腰痛という結果が出ている。その状況は現在でも大きくは変わっておらず、当院に来院する患者の主訴も肩こりや腰痛が比較的多い。

 臨床の現場において、経験上ではあるが肩こりや腰痛を緩和させるためには、筋の過緊張を取り除くと同時に、関節の調整を行うことでより効果が持続する感覚を持っている。
その理由として、二足歩行である人体は常に重力に抗して姿勢を維持しており、姿勢を維持するために抗重力筋である伸筋や体幹の筋肉が常時収縮していなければならないことや、姿勢が崩されるときには姿勢反射が働き姿勢を維持しようとする3)ことなどから円滑な日常生活を行う上での正しい骨格、姿勢が崩れると、より筋肉に負荷がかかることが考えられる。そのため慢性的に崩れてしまった骨格、姿勢を調整することが肩こりや腰痛の改善につながると考えられる。

 本症例は、初診時には重心線の崩れが非常に大きく(図1)、そのため大胸筋をはじめとする肩関節内旋筋の過緊張および抗重力筋の緊張低下が引き起こされていたものと考えられる。また大殿筋およびハムストリングスが過緊張することで骨盤後傾がみられたものと考える。

 初回の治療において、大殿筋およびハムストリングスの過緊張が改善され、また腰方形筋、脊柱起立筋の過伸展が改善されたことにより骨盤後傾及び腰椎の後弯の改善がみとめられたものと考える。また肩関節に関しては、大胸筋、広背筋、肩甲下筋などの上腕を内旋させる筋の過緊張が改善されたことで肩甲骨の位置が変わったと推測する(図2)。

 第2回目の術前では、若干の肩関節内旋の所見は見られるものの第1回の術後から重心線が大きく崩れている様子は見受けられない(図2、図3)。第2回の治療において、さらに過緊張した筋の柔軟性が向上し、過伸展された筋とのバランスがとれたことにより、肩関節および上腕骨の位置に変化が生じたことで僧帽筋、胸鎖乳突筋などの頸部の筋肉の緊張が緩和され頭位の変化まで認められたものと推測する。

 円滑な日常生活を行う上での姿勢の崩れが筋の過緊張や緊張低下に始まり起こるのか、関節の位置の異常にはじまり起こるのかという点に関してはどちらともいえない側面があるが、少なくとも指圧刺激が筋の柔軟性に及ぼす効果についての報告が複数存在する4~6)ことから、本症例においては姿勢を崩す原因となっている筋の過緊張が押圧操作により改善されたこと、また運動操作により関節の位置が改善されたことにより症状の改善が見られたものと考える。

V.結論

 指圧治療において押圧操作と運動操作を併用し、筋の過緊張を取り除き、関節の位置を改善させることにより肩こり腰痛が改善される傾向にあると考えられる。しかし今回は1例のみの報告であるため、さらに症例を重ね検討していきたいと考える。

VI.参考文献

1) 石塚寛:指圧療法学 改訂第1版,国際医学出版,2008
2) 厚生労働省:国民生活基礎調査.2013,http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/20-21.html
3) 東洋療法学校協会:生理学,医歯薬出版株式会社,1990
4) 浅井宗一 他:指圧刺激による筋の柔軟性に対する効果,(社)東洋療法学校協会学会誌(25),p.125-129,2001
5) 菅田直紀 他:指圧刺激による筋の柔軟性に対する効果(第2報),(社)東洋療法学校協会学会誌(26),p.35-39,2002
6) 衛藤友親 他:指圧刺激による筋の柔軟性に対する効果(第3報),(社)東洋療法学校協会学会誌(27),p.97-100,2003


【要旨】

押圧操作と運動操作の併用により姿勢矯正が認められた一例
新倉 玄太

 臨床現場において、多くの方が肩こり・腰痛の自覚症状を持っている。指圧治療において筋の緊張を 取り除くことだけではなく、姿勢や関節の調整を行うことで症状を改善させることができた。指圧治療の押圧操作と運動操作を併用することで筋・関節の両方に影響を与え効果を得られたものと考える。

キーワード:指圧治療、押圧操作、運動操作、姿勢矯正


鼡径部指圧による歩行能力への影響:小泉浩記

小泉浩記
日本指圧専門学校 
指導教員:金子泰隆
日本指圧専門学校専任教員, MTA指圧治療院 院長

Effects of Inguinal Region Shiatsu Treatment on the Ability to Walk

Hiroki Koizumi / Yasutaka Kaneko

 

Abstract : The effects of inguinal region shiatsu treatment on the ability to walk were verified using the timed up and go test (TUG). The post-treatment time was shorter than the pre-treatment time. This result suggests that shiatsu treatment may improve the ability to walk at least temporarily.

Keywords: Timed Up and Go Test, iliopsoas muscle, inguinal region, shiatsu


I.はじめに

 吉成圭らは鼠径部に対する指圧刺激による立位自動的体幹後屈における股関節伸展および腰椎後屈の可動域の拡大の可能性1)を報告しており、その理由として鼠径部への指圧刺激が腸腰筋の緊張を緩和し、それにより腰椎および股関節の可動域が拡大するためと考察している。しかし、ここではその機能的な変化については言及されていない。今回は比較的簡便であり、歩行能力評価法として信頼性が高いとされているTUGを用いて鼠径部指圧おける歩行能力の変化を観察した。TUGとは、1991年にPodsiadloらにより考案された2)、高齢者を対象に広く用いられている歩行能力の評価指標である。

Ⅱ.対象および方法

場所

 学校法人浪越学園 日本指圧専門学校8階教室

対象

 66歳男性(中枢神経疾患、骨折、筋断裂および変形性関節症などの下肢機能に影響があると思われる疾患の既往はない)

期間

 2015年9月4日、12日、19日、 10月3日(計4回、30日間)

刺激内容

 対象は仰臥位にて四肢をまっすぐに伸ばし、リラックスした状態をつくる。術者は上前腸骨棘の内下方より恥骨外方までの鼡径靭帯上に3点をとり、それを刺激部位とした3)。刺激は①掌圧(母指球による押圧)②術者の両手母指による指圧を1点あたりを約5秒とし、左右各5分ずつ連続して行った。押圧の強さは、刺激において術者の手掌および母指が皮膚および皮下組織に沈み込んだ際に、術者が鼡径靭帯と大腿動脈拍動を触知でき、かつ対象にとって心地良い程度とした。

評価

 TUGを用い、術前・術後の所要時間を比較した。肘掛けなしの椅子を用い、目印として前脚前端より正面前方3メートルの地点に赤色コーンの中心部を配置した。対象が掛け声に従い椅子から立ち上がり、目印を回って再び椅子に腰掛けるまでのタイムをストップウォッチを用いて測定した。一連の動作を刺激の直前および直後に①通常の歩行速度、②最大の歩行速度にて1回ずつ行いタイムを計測し、②最大努力の歩行速度でのタイムを計測値として採用した。

III.結果

 4回すべての刺激において、刺激前に対し刺激後のタイムの短縮がみられた。刺激前および刺激後のタイムにおいて、全期間を通してのタイムの短縮はみられなかった(表1、図1)

表1.TUGタイム(秒)表1.TUGタイム(秒)

vol4_05fig1図1.TUGタイムの変化

IV.考察

 腸腰筋は大腰筋と腸骨筋の2つの筋からなり、これらは骨盤腔内で合して腸腰筋となり、鼠径靭帯下の筋裂孔を通過して、大腿骨の小転子に停止する。鼠径部の指圧においては、鼠径靭帯を押圧の指標とし、上前腸骨棘内側から恥骨の外側にかけてを皮膚表面に対しほぼ垂直に押圧する。したがって、その押圧は腸腰筋に達すると考えられる。

 速度の緩やかな歩行においては、立脚終期の伸展した下肢を振り子のように前方に振り出すことで、腸腰筋を使わずとも足を前へと運ぶことができる。しかし、努力的な歩行において、腸腰筋は遊脚前期から中期にかけて強力に作用し、伸展した股関節を屈曲させ、より積極的に下肢を前方に振り出す4)。そしてAnderssonらの筋電計を用いた研究によれば、歩行におけるこれらの筋の影響は歩行の速度が速くなるほど大きくなる5)という。他にも歩行中の腰部の安定や、バランスを失った際の緊急的な姿勢制御などにおいても腸腰筋の能力は影響しうると想像される。

 衛藤は指圧刺激が筋出力調整力を向上する可能性6)を報告しており、その要因として、速動性および持続性NUMへの影響と局所血液量の増大のふたつの可能性をあげている。本研究における指圧後のタイム短縮もこれに似て、鼠径部の指圧刺激による腸腰筋の状態的な変化が努力的歩行におけるその機能性に影響し、結果として歩行速度は増加し、タイムが短縮したと考える。

 研究期間全体を通してのタイムの短縮が見られなかったことについては、腸腰筋単体の指圧刺激では、筋に対して起こした状態的変化を固定的なものにするには至らなかった為と考える。これがより長期的な変化となるには、大腿直筋や大腿筋膜張筋などの腸腰筋以外の股関節屈筋や、大殿筋やハムストリングスなどの拮抗筋の状態的変化と、それによる腰部および股関節の矢状方向のアライメントの変化が必要であると推測する。
今回は対照を設けなかった為、タイムの短縮に関しては被験者の学習効果の影響を除外できていない。指圧刺激単独の影響を検証するためにも対照を設けた実験手法を今後の検討課題としたい。

V.結論

 鼠径部への指圧により、刺激後TUGタイムが刺激前に比し短縮傾向であった。

VI.参考文献

1) 吉成圭 他:鼠径部指圧刺激が脊柱可動性に及ぼす効果,東洋療法学校協会学会誌32号,p.18-22,2008
2) D. Podsiadlo,S. Richardson:The timed “Up & Go”: a test of basic functional mobility for frail elderly persons,Journal of the American geriatrics Society, 39.2, p.142-148, 1991
3) 石塚寛 他:指圧療法学,国際医学出版株式会社,東京,p.102,2008
4) D. A. Neumann,嶋田智明,平田総一郎:筋骨格系のキネシオロジー医歯薬出版,東京,p.573-574,2005
5) E. A. ANDERSSON他:Intramusclar EMG from the hip flexor muscles during human locomotion, Acta Physiologica Scandinavica Vol. 161, Issue 3, p.361-370, 1997
6) 衛藤友親:指圧による底背屈力の変化について,日本指圧学会(2),p.10-12,2013


【要旨】

鼡径部指圧による歩行能力への影響
小泉 浩記/金子 泰隆

 鼠径部への指圧が歩行能力にどのような影響を及ぼすかを、Timed Up and Go test(TUG)を用いて調べた。指圧前と比較して、指圧後のタイムが減少傾向であった。この結果より指圧刺激が短期的に歩行能力を向上させる可能性が示唆される。

キーワード:五十肩、肩関節周囲炎、関節可動域、指圧


浪越式基本指圧腹部操作が短距離走の走行タイムに及ぼす影響:大久保圭祐、中野まほ

大久保 圭祐, 中野 まほ
日本指圧専門学校 
指導教員:石塚洋之
日本指圧専門学校専任教員

Effects of Abdominal Region Shiatsu Based on Namikoshi Shiatsu Therapy’s Standard Procedures on Short-Distance Sprint Performance

Keisuke Okubo, Maho Nakano / Hiroyuki Ishizuka

Abstract : Ahead of the 2020 Tokyo Olympic Games, sports is receiving increasing attention in Japan. The aim of this study was to verify the effects of Namikoshi shiatsu therapy’s standard procedures on sport performance.
After adequate warm-up, five 50-meter sprints separated by five-min-intervals were timed, and images were taken with a fixed camera to analyze its influences on posture. Twenty points on the abdomen, which were based on Namikoshi shiatsu therapy’s standard procedures, were treated three times before the first sprint and during each interval between the sprints. On a different day, splinters performed five 50-meter sprints separated by five-min-intervals in the supine position without shiatsu treatment.
On an average, the shiatsu-treated group had shorter sprint times than the control group. When camera images were compared between the shiatsu-treated and control groups, differences were observed in twisting of the trunk, flexion of the knee joint, and stride length. These results suggest that the 20-point abdominal-region shiatsu based on Namikoshi shiatsu therapy’s standard procedures may have positive effects on the sprint performance.

Keywords: Shiatsu, run, sprint, abdominal region, abdominal pressure, trunk, exercise, time, 50m, track and field, manipulative therapy, angular motion, image, rectus abdominis, obliquus externus abdominis muscle, obliquus internus abdominis muscle, Olympic, length of stride, twist, motion, ROM, range of joint motion, joint, load, track, race, performance, massage, start, dash, run, crouch start, running motion, abdominal region shiatsu based on Namikoshi shiatsu therapy’s standard procedures


I.はじめに

 本実験では、50m全力走行時に、事前に走者に対して浪越式基本指圧腹部操作20点圧1)を施すことにより足関節、膝関節、体幹、肩関節のROM、股関節の屈曲スピード、スタートにおける腰部の位置に及ぼす影響と、これらが歩幅と走行時間にもたらす変化を検証した。

 8月15日は被験者に指圧刺激を与えて計測し、対照としては8月2日は被験者に指圧刺激を与えずに計測を行った。指圧刺激は浪越式基本指圧腹部操作20点圧を3セットとし、最初の走行前と各走行前の5分休憩時に実施し、計5回行った。対照は、最初の走行前と各走行前の計5回、仰臥位で5分間の安静をとらせた。走行前には十分なストレッチを行った2)

Ⅱ.方法

日時

 2015年8月2日、15日

場所

 駒沢オリンピック記念公園 陸上競技場 直線トラック

被験者

 1名 27歳 男性 体重52㎏ 身長161㎝ 
 小学生から大学生までサッカー競技者

道具

 CASIO DIGITAL SPORTS STOP WATCH HS-70W

撮影機材

 SONY HANDYCAM HDR-CX420
 iPhone 6plus

編集アプリケーション

 Adobe premiere pro CC 2015
 Adobe photoshop CC 2015

図1.実験プロトコル図1.実験プロトコル

III.結果

vol4_06fig2

vol4_06fig3

vol4_06fig4

vol4_06fig5

vol4_06fig6

vol4_06fig7

vol4_06fig8

表1.腹部指圧の有無による時間比較(秒)表1.腹部指圧の有無による時間比較(秒)

vol4_06table2表2

 走行時間による計測、撮影画像の比較から、表1、表2のような結果が得られた。腹部指圧により変化したのは、膝関節(屈曲)、腰部の位置、体幹(捻り動作)、肩関節(伸展)、歩幅、走行時間の短縮である。

 

IV.考察

 短距離の走行周期は次の2つに分けられる。①サポート期(足底が路面に接触している期間)と②リカバリー期(足底が路面から離れている期間)である。さらに、①および②は各3つに分類される。①サポート期は①‐1フットストライク(足底の一部が路面に接地する期間)、①‐2ミッドサポート(足底が路面に接地し、体重を支え、踵が地面から離れる直前までの期間)、①‐3テイクオフ(踵部が路面から離れ、足指が路面を離れるまでの期間)②リカバリー期は②‐1フォロースルー(足底部が路面から離れ、下肢の後方の運動が止まるまでの期間)、②‐2フォワードスウィング(下肢が後方から前方に移動する期間)、②‐3フットディセント(足底部が接地する直前の期間)以上の各々の周期には特異的な筋活動がみられ、走行スピードによっても変化している。1㎞を平均時速12km/hで走行した場合と平均時速16km/hで走行した場合、100mを平均時速36km/hで走行した走行した場合の筋活動では、100mを平均時速36km/hで走行した場合のみ腹筋活動が強くみられている。走行周期では①‐2~②‐2までに腹筋活動が強くみられる3)

 短距離走でのみ腹筋活動がみられる理由として、腕振りと骨盤の強い角運動が考えられる。走行時、骨盤には鉛直軸にまわる回転運動が生じ、鉛直軸周りの角運動量が生じる。この運動による体幹のブレを軽減させる為に腕振りが大切であり、事実、腕振りの角運動は骨盤の角運動により体幹に生じるブレを打ち消している。これは、大きなストライドで走る短距離走での走行に特徴的にみられる4)

 走行には理想的な脚の軌跡があり、スプリント・トレーニングマシンを用いた研究によると、足の運動には骨盤や体幹部の柔軟な捻り動作、回転運動を有効に利用し、かつ、身体バランスを巧みにとることが必要であるとされている。また、重要となるのは、この運動の始点がみぞおち辺り、すなわち上部腰椎から胸椎辺りまでということである5)

 腹部指圧による影響を受けると考えられる筋には、腹圧に関わる筋(横隔膜、腹直筋、外腹斜筋、内腹斜筋)が含まれている。これらの腹壁筋に骨盤底筋群が加わり、協調的に収縮することで、腹腔内圧は上昇する。腹腔内圧の上昇は上位腰椎・下位腰椎の椎間板にかかる負荷を大幅に軽減することが知られている6)

 以上のことから本実験において、腹部指圧により腹圧に関わる筋の協調的なパフォーマンスの向上、及び、体幹の安定が生じ走行パフォーマンスが向上し、走行タイムが縮んだことが1つの可能性として考えられる。また、スタートダッシュにおける第1歩までの反応時間も、走行タイム短縮の可能性として考えられるが現段階では分析が難しい。

Ⅴ.結論

 腹部指圧は走行において注目される下肢には直接作用していない。しかし、運動の始点となる体幹部に影響を与え、下肢や上肢がより理想的に運動することに寄与していると考えられる。

 しかしながら、本実験では不明な点が多く、また、腹筋の運動があまりみられない、中・長距離の走行の時間には影響を与えない可能性もある。この先、より専門的な実験、分析が必要である。

 

引用文献

1) 石塚寛:指圧療法学 改訂第一版,国際医学出版株式会社,2008 
2) 杉浦晋:ストレッチング&ウォームアップ部位別テクニックと競技別プログラム,株式会社大泉書店,2008
3) 河野一郎,筑波大学 他 監修:公認アスレティックトレーナー専門科目テキスト 第6刷,株式会社文光堂,2011 
4) 鹿倉二郎 他 編集,河野一郎 他 監修:公認アスレティックトレーナー専門科目テキスト 第7巻アスレティックリハビリテーション,株式会社文光堂,2011
5) 小林寛道:ランニングパフォーマンスを高めるスポーツ動作の創造,杏林書院,p.42,2001
6) 坂井建雄 他 監訳:プロメテウス 解剖学アトラス解剖学総論運動器系 第2版,株式会社医学書院,2013 

参考文献

斎藤宏:運動学,医歯薬出版株式会社,2003

撮影協力:Clothing Valley Digital Studio


【要旨】

浪越式基本指圧腹部操作が短距離走の走行タイムに及ぼす影響
大久保 圭祐, 中野 まほ / 石塚 洋之

 2020年東京オリンピック開催に向け国内ではスポーツ事業に大きな関心が集まりつつある。そこで、「浪越式基本指圧」がスポーツパフォーマンスにどのような影響を及ばすのかを検証することは意義があると考え本実験を行った。
 走行前に十分な準備運動を行い、50メートルの全力走行を5分の休憩を挟んで5回行い、それぞれの走行時間を計測。また、走行時の姿勢の検討の為、定点にカメラを設置し撮影した。腹部指圧を行う場合、最初の走行前とそれぞれの5分休憩の間に腹部指圧20点を3回行い、コントロールは同時間仰臥にて休憩をとった。なお、腹部指圧とコントロールはそれぞれ別日に行った。
 走行タイムは平均して、指圧を行った方が短縮した。また画像比較においても、体幹の捻り動作、膝関節の屈曲動作、歩幅の3点に変化がみられた。浪越式基本操作腹部指圧20点圧が、影響を与えた可能性があると考える。

キーワード:指圧、走行、短距離、腹部、腹圧、体幹、運動、時間、50m、陸上、手技、角運動、画像、腹直筋、外腹斜筋、内腹斜筋、オリンピック、歩幅、ひねり、動作、ROM、関節可動域、関節、負荷、トラック、競技、タイム、マッサージ、スタート、ダッシュ、走る、クラウチング、走動作、浪越式腹部指圧


応用腹部指圧:黒田美稚子

黒田美稚子
日本指圧専門学校専任教員

海外指圧レポート 

学校法人浪越学園 日本指圧専門学校では、日本発祥の指圧療法を海外へ普及すべく、年に一度カナダ(バンクーバー)へ教員を派遣し、技術指導を行っている。  平成27年度は、日本指圧専門学校 常勤教員 黒田美稚子先生が派遣され「応用腹部指圧」というテーマでCanadian College of Shiatsu TherapyのインストラクターおよびJapan Shiatsu Clinicのセラピストに対して指導に当たった。  以下講師を務められた黒田美稚子先生よりご提出いただいたレポートを掲載する。


1.はじめに

 腹部指圧は高い治療効果が期待できる一方で難易度の高い部位でもある。今回は、浪越式腹部基本指圧をベースに西洋医学、東洋医学それぞれにおけるひとつの視点を提示し、腹部指圧を積極的に治療に取り入れていただくきっかけを作ることができたら幸いである。

2.浪越式腹部基本指圧

 浪越式指圧の特徴である腹部指圧は、自律神経への作用として心拍数の減少、血圧の低下、筋血流量の増加、消化管蠕動運動の促進、瞳孔直径の縮小、また、筋骨格への影響としては仙骨傾斜角度の増加が浪越学園指圧研究会の研究により明らかにされている(図1)。

 さらに、腹直筋および大腰筋へのアプローチも可能であることから腰痛治療に非常に効果の高い部位でもある。

図1.腹部指圧基本手順図1.腹部指圧基本手順

3.西洋医学的視点から結果
 ~解剖学的アプローチ~

 前述したように、腹部指圧は自律神経調整、また腰痛治療に高い効果が期待できる。そこで今回は腹部の筋緊張が姿勢に与える影響を考えたい。
図2のように、腹直筋、腸腰筋の過緊張が骨盤の傾斜および腰椎の弯曲に与える影響は大きい。

図2.腹直筋、腸腰筋の過緊張が骨盤の傾斜および腰椎の弯曲に与える影響図2.腹直筋、腸腰筋の過緊張が骨盤の傾斜および腰椎の弯曲に与える影響

 そこで次に、腹部からの大腰筋へのアプローチの仕方を考えたい。腹直筋が浅層にあるのに対し大腰筋は深部に存在する。そのため、起始停止や走行のイメージを明確に持って押圧することが大腰筋へのアプローチの鍵となる。

 腸腰筋(図3)

vol4_07fig3図3.腸腰筋


[起  始] (浅頭)Th12~L5の椎体ならびに椎間板
      (深頭)すべての腰椎の肋骨突起
[停  止] 大腿骨小転子
[支配神経] 大腿神経(L1〜L4)
[作  用] 股関節の屈曲、骨盤の前頚
[検  査] トーマステスト(股関節屈曲拘縮)

腸腰筋の作用(図4)

図4.腸腰筋の作用図4.腸腰筋の作用

①骨盤・腰椎を固定した時
 →股関節屈曲
②大腿骨を固定した時
 →腰椎前弯、骨盤前傾

腹直筋および腸腰筋のイメージ

vol4_07fig5図 5.腹直筋および腸腰筋のイメージ

押圧時の注意点
①受け手の姿勢
 股関節膝関節を屈曲した仰臥位で胸式呼吸
②目的を明確にする
 ・ 腹部20点圧および小腸部において両母指圧で押圧する。
 ・ ターゲットとする筋を明確にし、それに応じた深さで圧を加える。

4.東洋医学的視点から  ~腹診~

腹診とは
お腹を触って、腹壁の硬さや張り具合、押さえた時の抵抗や圧痛、内臓の水の音などの特徴を探って体の状態を調べる診断法。
西洋医学では、腹壁の上から腹部の内臓の様子を探るのが主な目的だが、東洋医学の腹診では、腹部の皮膚や腹筋の張り、硬さ、しこりの有無などから、病気への抵抗力である正気の充実度や気・血・津液の状態を把握し、五臓の不調を推察することを目的とする。

腹診では各部位特有の反応を診る

vol4_07fig6図6.腹診では各部位特有の反応を診る

代表的な反応

vol4_07fig7図7.腹部の代表的な反応

腹診を腹部指圧に取り入れる
①受け手の姿勢
下肢を伸ばした仰臥位で胸式呼吸
②目的をもつ
・ 「の」の字型掌圧時に腹診及び治療
・ 腹部20点圧および小腸部において治療及び反応観察

5.結論

 今回、腹部指圧を用いるきっかけとして腹直筋および腸腰筋への指圧による腰痛治療、また腹診の紹介をしたが、実際患者を診るにはもちろん腹部だけでなく大腿四頭筋やハムストリングスの評価、腹診のほかに聞診、望診、問診を行い総合的に診断する必要がある。
 身体を診るひとつの視点として頭の片隅に置いていただき、患者の状態を把握するための一つの手段にしてほしい。

参考文献

1) 指圧研究会論文集Ⅱ1998-2012,日本指圧専門学校
2) プロメテウス解剖学アトラス 解剖学総論/運動器系,医学書院
3) 東洋医学 基本としくみ,西東社


随筆:いのちを救う押圧~指圧師が遭遇した救急救命の現場~:衞藤友親

1.はじめに

日本指圧専門学校のホームページに、卒業後の進路のひとつとしてスポーツトレーナーが紹介されています。

 私の場合は一般的にイメージされるスポーツトレーナーとは若干ニュアンスが異なりますが、一応トレーナーのはしくれとして生計を立てております。平成13年当時、すでにトレーナーとして体育実技の授業補助業務を担当していた私は、業務内容を充実すべく(そしてあわよくば学内で開業できないかとたくらみつつ)日本指圧専門学校に入学しました。卒業および資格取得後も学内の体育館にて授業補助を主とした業務を担当しています。業務内容は、体力測定の実施、結果集計、還元、解説、トレーニング指導、器具の使用法説明など様々です。指圧の技術が活きていないようにも見えますが、大学の仕事が今ほど忙しくなかった時には業務終了後に訪問治療を行っていたこともありました。また、各運動部の学生を対象に肩や腰の調子を指圧で整えたりもしています。

 そのような日々を過ごす中で、押圧操作を修練することで獲得した身体動作および知識が人命救助に繋がった事故の例を報告いたします。命の危機に瀕している人にそもそも遭遇しないことが平穏無事な人生ではありますが、万が一の事態に居合わせた時の参考にでもして頂ければ幸いです。

2.事故発生状況

 平成25年10月某日、16時過ぎからの授業に於いてある事故が発生しました。その日もごく普通に体力測定の授業補助業務を遂行し、受講者を数班に分けて反復横跳びの計測をしていました。反復横跳びは、1メートル間隔で引かれた3本のラインを20秒間で何回踏み越すもしくは踏むことができるかを計測する敏捷性のテストです。

 試技終了を告げる電子タイマーのブザー音と同時に学生がひとり倒れました。直前まで元気にステップしていたので、その勢いのまま受け身もとらず、まるで急に電源が切れたかのように身体が床に打ちつけられました。私は学生の後方に位置しタイマーの操作をしていました。(主観ではスローモーションのように)倒れていく学生を見ながら、過去に授業中にてんかん発作によって転倒した学生のことを思い出しました。今回もきっとそのような症状だろうと見込みながらその学生に近づきました。万が一気を失っていたとしても、転倒の衝撃によるものだろうとも見込みながら。この想定が結局は大はずれだったのですが、結果的には落ち着いて対処できる要因にも繋がったとも思えます。

3.当該学生の症状と救助時の心境

 呼びかけても返事をしないし、四肢は泥酔時のようにぐったりとしている。様子を観察すると同時並行の自然な流れで橈骨動脈を触診していました。
指圧師は指先の感覚が鋭敏であると思っています。また、人様の身体に触れ、脈をとるスキルにも長けていると思います。当該学生の脈は浅く速く弱く、理性では「脈あり」と判断していましたが、指先から伝わる違和感に突き動かされるように次の行動を起こしていました。

 訓練では心停止している患者に対してはすぐさま119番通報とAED(Automated External Defibrillator自動体外式除細動器)の手配を依頼するのですが、この時の私は半信半疑で、同僚のトレーナーA氏に対して119番通報ではなくAEDを持ってくるように指示を出しました。指示の出し方も訓練時の叫ぶような口調ではなく、「とりあえずAED持って来ましょうか?」的なのんきなものでした。幸いだったのは、たまたまシフトの都合でもう1名いた別のトレーナーB氏が「AED」の単語だけですべてを理解し迅速に行動して頂けたことです。結果的には直接指示を出していない(出し忘れた)119番通報までして頂けたので非常に助かりました。

 理性では「脈あり」、指先では「異常」を感じたままAEDの到着を待ち、当該学生を注意深く観察しました。理性では「AEDを装着しさえすれば、異常なしの音声が流れるはずだ」と固く信じていました。しかし、当該学生の顔色は徐々に蒼白となり、脈も徐々に弱まっていくように感じられました。単なる気絶でも重篤な心停止でもどちらに転んでもいいように、とりあえず片手での胸骨圧迫(心臓マッサージ)を開始しました。以前に講習にて、胸骨圧迫を正確に行った場合の心拍出量は約20ccであることを学んでいたので、およそ20cc以下程度の弱い押圧で胸骨圧迫をやってみようと半ば無意識に手が動いていました。あとから冷静に考察すると、胸骨、肋骨、心臓その他臓器を極力傷つけずに血中の酸素だけを脳と心臓に送りたかった心境が投影されての圧だったと思います。

 やがてAEDが到着し、訓練やマニュアルの手順とは異なり二人で手分けして電極パッドを装着し、自動解析がはじまりました。単なる失神であるとこの期に及んでも強く信じていたのでただひたすら「ショックの必要はありません」の音声を待ちました。そう告げてくれれば救助している我々にとっても当該学生にとっても平穏な日常が戻って来る、と祈りながら。

 ところがAEDからの音声指示は、訓練で聞きなれた「電気ショックが必要です」でした。その音声を聞いて、遅ればせながらこの時はじめて「絶対にこの学生を助けなければならない!」という強い意志へスイッチが切り替わりました。そこからはマニュアルに従い訓練通りの動きを意識的に行いました。電気ショックの後、最低5cm毎分120回のリズムで垂直に押す胸骨圧迫と人口呼吸を併用しました。その処置が1~2分経過したころ、死戦期呼吸のような反応がみられました。一応死戦期呼吸と判断して胸骨圧迫と人口呼吸を続け、正常な呼吸に近づきつつあると判断した時点で回復体位に体位変換しました。

 体位変換後も、俗に「三途の川を渡りかけている時は呼べばこちらの世界に返って来る」と言いますが、当該学生の耳元で頑張れとか呼吸しろとか、叫ぶように励まし続けていました。

4.救急隊到着から搬送

 119番通報をお願いしたトレーナーと体育事務室および守衛所の連携が円滑に行われ、救急隊が到着したのは学生が倒れてから7分以内であったのを覚えています。

 救急隊は3名ずつ都合2隊到着しました。先発隊の判断から後発隊が要請されたのか否かは明瞭には覚えていません。先発隊の処置を横目に見ながら、AEDの使用や状況の詳細を隊員に説明しました。後発隊の酸素吸入が開始されると、当該学生が不明瞭ながら声を発するようになり、状況からとりあえず危機的事態は脱したように感じ取れました。しかし、現場で当該学生の意識がしっかりと戻るのは確認できぬまま搬送されました。

 事故発生から搬送までの時間はおよそ20分弱くらいでした。その間、授業担当の先生には当該学生以外の受講生の対応などをしていただき、当該学生の付添もしていただきました。私を含めたトレーナー3名はトレーニング場を開放する通常業務に復旧すべく原状回復などを行いました。

 通常の開放業務を行いつつ、搬送先の病院からの連絡を待ちました。自分自身人生初の心肺蘇生法の実践がとりあえず蘇生の帰結を見たのには安堵していました。しかし、少し落ち着いてから冷静に顧みると、片手による圧迫は充分だったか?胸骨圧迫開始までの時間がかかりすぎていなかった?など、不安に思うことが増えていきました。

 事故発生から約90分後、病院に付き添った先生から当該学生の意識が回復し、簡単な会話ができるようになったとの電話連絡がありました。国家試験に合格した時以来の安堵感を覚えました。意識回復の連絡を受けて、その日は通常よりも2時間強遅く帰宅しました。

5.後日の顛末

 使用したAEDは病院で詳細に解析されたらしいです。加えて、メーカーによる電池残量の点検などを経て事故発生から6日後に返ってきました。平常を取り戻しつつも、当該学生のその後の様子や原因が気がかりでした。心のもやもや感を解消すべく、AEDによって命をとりとめた実例をまとめた書籍を読んだり、インターネット上の情報にあたったりしながら日々を過ごしました。

 事故発生から約50日後の11月下旬、倒れた学生本人が挨拶に来てくれました。倒れた時は当然体育の授業中で運動着姿でしたので、私服でしっかりとした足取りで来られた時は一瞬誰だったか思い出せませんでした。30分弱話をする中で、事故発生前後の記憶が曖昧であること、精密検査のため退院が遅れかつ転院したこと、本人も気づかなかった遺伝的な疾患が原因であったこと、などを丁寧に教えてくれました。

 もし街中で人命救助をしていたら、本人からこちらを訪ねて来て頂いて詳細に説明してくれはしないのではないか?と考えると、改めていろいろな不幸中の幸いに恵まれたのだな、と感じました。

 本人から無事に学生生活に復帰できそうだとの報告を受けて、関係各所にしかるべき連絡をいたしました。事故発生から約70日後の12月下旬に消防署長から、更にそれから20日後の1月上旬に学長から、それぞれ感謝状を賜りました。ここに至ってしっかり、はっきりと心の中の整理が決着した気がしました。

6.考察および指圧師として

 日本で一般市民によるAEDの使用が認められたのが平成16年7月です。私はその年の4月にあマ指師免許を取得しました。その2年後の平成18年6月に当時住んでいた平塚市で普通救命講習を受講しました。当時はそんなに意識していませんでしたが、AEDの一般使用が認められてから比較的早い段階で救命講習を受けていたことになります。実技講習の中で印象に残っているのが、ご指導いただいた消防署員から胸骨圧迫を褒められたことです。休憩中、その方との雑談の中で「僕は指圧師なので垂直に圧すコツはつかんでいます。」とお話しさせていただいたのは今でもはっきり覚えています。指圧界の言葉に訳すと、膝で下半身の体重を支え、重ね掌圧で肘を伸ばし、上半身の体重を上手に使いながらリズミカルに圧す、とでも言えましょうか。または、胸骨体に対する重ね掌圧による手掌基部を用いた流れない流動圧法、とも(無理矢理)言えなくもないでしょうか。

 手技療法士は他人様の身体に触れることが業務の大前提です。主観ですが、中でもとりわけ指圧師は「垂直に圧す」ことに関しては一番敏感であると思います。心肺蘇生法の胸骨圧迫は、垂直に圧さなければ有効に酸素(血液)が送れないのと同時に、肋骨・胸骨損傷のリスクがあるとされています。「垂直に圧す」ことを学び、習得していて良かったとその当時も思いましたし、実際に人を助けることができた今も思っています。

 先にも述べた通り、脈をとるスキルも指圧師は長けていると思います。基本指圧において腋窩を圧す時、ポイントをきちんと押さえられているか否かを確かめる手段として橈骨動脈を触診します。何回も繰り返し行えば、たくさんの人の様々な脈の様子が指先にカルテのように蓄積されていきます。異常な脈だと判断できたのもこのおかげだと思っています。

 日々の業務に追われて忙しいあマ指師の方々も多いとは存じますが、ぜひお近くの消防署や日本赤十字社が主催する救急法講習会を受講することを強くお勧めします。確率はかなり低いかもしれませんが、救急救命の現場に居合わせた時に慌てなくて済みますし、指圧師のスキルの応用としては親和性がかなり高いとお気づきになるはずでしょう。

 ちなみに講習で使われる人形は、胸骨圧迫の感触が実際の人間を圧迫したときの感触と驚くほど似ています。開発者の努力に頭が下がります。

7.おわりに

 事故発生から約1年後、生涯3度目となる救急法の講習を受講しました。人を助けたからといって決して驕っていたわけではないのですが、電極パッドを貼る位置などのズレをご指摘いただきました。救急法のスキルも指圧のスキルも、日々勉強してブラッシュアップしていく必要性を感じました。
 また、想像の範疇を超えませんが、精神的にも物理的にも人様と接触する指圧師のスキルは、介護や保育や生活の様々な場面で応用可能なはずです。いずれはそちら方面の研究もしてみたいです。


参考文献 

1) 石塚寛:指圧療法学 改訂第1版,国際医学出版,2008
2) 島崎修次 監修,田中秀治 編:AED 街角の奇跡,ダイヤモンド・ビジネス企画,2010
3) 日本赤十字社 編:赤十字救急法基礎講習,日赤サービス,2012